可能性の蓋がない

暇な時間をどうするかが最近の課題〜

ハイスペック男子との結婚=人生安泰?

いわゆる「ハイスペック男子」と付き合っていたとき、何人かから「(彼はあんなにハイスペなんだから)絶対別れるなよ!」とか「手放したらもったいないから絶対結婚しろよ!」と言われた。

 

 

そう言われるたびに、わたしはちょっと悲しいような、恥ずかしいような気持ちになった。そして同時にモヤモヤとした、怒りのような感情も持った。さらには、そう言った相手のことを心の中で軽蔑した。なんて浅はかで、物事を見る目が無い、薄っぺらな人なのだろうと。

 

 

彼らは、わたしの当時のパートナーを「収入が多く、社会的地位があり、魅力的な男性」と評価しており、わたしのことは「そんな男性を捕まえたラッキーな女」程度にしか思っていないようだった。お金持ちの男性を捕まえたから将来は安泰だね!と言われると、わたし自身は空っぽで中身のない女だと言われてるようにも感じたし、わたしとパートナーとの間にある気持ちの折り重なりは無視されて「彼のお金やスペックだけに惹かれてる女」と決め付けられてるような気もした。

 

でもわたしは、彼の肩書きや収入を目当てに付き合っていたわけではない。一緒にいてとても楽しかったし、またどこかに出かけたいとか、もっと話したいとか、そういう気持ちの一つひとつを積み重ねて恋人同士になったのだ。

 

 

「結婚まで絶対に別れるな!」なんて、なぜ他人に言われなきゃいけないのだろう。結婚するか別れるかは私とパートナーのストーリーだし、結婚したらそのストーリーが終わるわけではない。むしろ、始まり。それなのに「彼と結婚したら君の人生は安泰だね」なんて、なぜ、他人が決めるの?なぜ他人がわたしの人生を評価するの。安泰かどうかなんて、死ぬまでわからないのに。

 

わたしは「相手のお金や肩書きを手放したくない」なんて思ったことがなかった。パートナーの肩書きや収入はパートナー自身の努力で手に入れたものだから、もしわたしが結婚したとしても、その肩書きや収入がわたしのものになるわけではないのだ。

 


これが普通の感覚だと思っていたけど、どうやら「手放すな!」と言う人たちとは違ったみたい。

 


お金はとても大事だけど……「存在を大切にしたい」「存在を大切にされている」という感覚や思いやりの方が、「幸せな暮らし」に近い気がする。

 


わたしの人生はわたしが決める。パートナーを選択するのも、結婚も、別れも、全ては自分と自分の大切な人の幸せにつながっていると信じたい。だからこそ、「ハイスペックな男性と付き合えてよかったね!手放すな!」なんて、彼をモノのように見る人たちの言葉は本当に嫌だった。

 

結局わたしはそのパートナーとは別れ、数年後に別の人と結婚した。今の夫が「ハイスペック」なのかどうかは、わたしにはわからない。そもそも人をスペックで判断したことがないから。ただ、人一倍努力家で、仕事に一生懸命な夫を本当に尊敬している。彼が私を妻としてくれたことをとてもありがたいと思う(夫もスペックで人を判断する人だったら、私のことは選ばなかっただろうな笑)。

 

 

 

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(↑とーっても美味しかったスイカジュース@タイ  生のスイカより美味しかった!好きだった!暑いタイで飲むのにぴったり)

 

 

 

人を肩書きや収入=スペックで判断する人は、自分もそう判断されても怒らないのだろうか?よっぽど自分に自信があるのかしら。