可能性の蓋がない

暇な時間をどうするかが最近の課題〜

ゆるーく ぬるーく あまーく生きる

自分の年齢が幾つなのか、聞かれてもすぐに答えられないときがある。30歳を過ぎた頃から自分が何歳なのかよくわからなくなり、毎回咄嗟には出ない。なので別に年齢を隠したいわけでないのに「だいたい30代半ば」なんて言ってたり。いや、本当に覚えられなくて…だってそもそも1年が速すぎるんだもの…何度目の誕生日かなんて覚えてられない…

 


さて本題。

 


アラサー、アラフォー、どっちでもいいけど。とにかく私はそのくらいの年齢にもかかわらず、まだ自分のことがよくわからないでいる。30年以上も自分をやってきたのに、なんだか自分というのはぼやぼやしている。というか、20代の頃の方が、「自分」ははっきりしてた気がする。物事の好き嫌い、何をしたいか、どうしたいか、何になりたいかーーーそういったものがいくつもあって、「私はこうです」「これが好きです」という意思の切れ味が鋭かった。逆に言うと、許せないもの、嫌いなことも多かった。

 

それが今はもう、ゆるゆる。

 

精神面のグラデーション的な部分、つまり白でも黒でもないところが増えたという感じだ。これまでは「物事は白か黒に分けられて当然。グレーもあるかもだけど、それは意思が弱いからだ、努力が足りないからだ」というような感覚だった気がする。今思うと痛いな笑。

 


でも色々な経験を経て「グレーがあってもいいし、むしろグレーが広いのも悪いことではないよね」「黒と白が曖昧でも、それの良さってあるよね」とわかってきた感じ…許容範囲が広がったのか?だとしたらやはり、経験とは素晴らしいものというか、心を大きくさせてくれることだなぁ。

 

 

この「ゆるさ」は人に対しても自分に対してもそうで、もう、わたしは年々 自分に甘くなっている。「ゆるくても、生きていたらそれでいいじゃーん!ぱっぱらぱ~」って感じ。こんな仕事をして自己実現したい!とか思ってない。もう、幸せに生きてたらそれで良い。わたしも、家族も、お友達も、みんなみんなそれぞれに幸せでいてほしい。本当にそう思う。

 


でも。

 


「幸せ」ってそれぞれに違って、感性とか感受性みたいなものだから…それが弱いひとは幸せを感じづらくて生き辛さもあるのかしら、と思うことがある。「生きてるだけで幸せ」と思える人とそうでない人がいるのは、感覚や感性の違いな気がする。もちろんその感性があった方が良いのだとは思うけど、死にたいくらい生きづらさを感じている人に「生きてるだけで幸せよ」と言うのは酷なことだと思うので…せめて、「もっとゆるーくとろーっとのんびりいこうーぼんやりしてていいよー」と言ってあげられたら良いのかなーと思うこの頃。

 


わたしは自分の年齢さえ覚えられないすっとこどっこいぱっぱらぱーなので、そして月曜日の今日もお布団の中でぬくぬくとこれを書いているような怠惰さなので、たくさんの方の役に立つような素晴らしいことはできないのだけど……ゆるさや甘さは天下一品だから、どこまでも人を許したり甘やかしたりして「大丈夫だよ」って言ってあげられる人でいたい。どんな人でも何らかの「それでも生きている理由」はあるのだろうから、それを見つけて認めてすごいじゃーん!って言う係(笑)でいたい

 


と、こうして、今日も自分のゆるさを肯定しながらとろとろとぬるま湯のように生きます(ぬるま湯に浸かるとダメとよく言うけど、気持ち良いのだから使ってたいよね、ぬるま湯をずっとぬるま湯として保つ努力はなかなか大変なものだと思うのである!笑笑笑)。

 

 

自分に甘くないと人に優しくできないよね。

 

 

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↑珍しく朝ごはんを食べた日。