可能性の蓋がない

暇な時間をどうするかが最近の課題〜

他人を犠牲にしない自由な生き方

【自由に生きたい】って、中学生の頃から強く思っていた。自由の定義はその時ごと(学生、社会人、母親になってから…とか、フェーズが変わると求める自由も変わる)に変わったりもしたけど、核となる部分は常にあって…「自分の好きなように楽しく生きる」「納得いかないルールや風潮が無い世界で生きる」みたいな感じ。お陰様で学校にもまともに行かず、もちろん学歴もありませんし、転職回数も多く、ずっと社会不適合者です^ ^

 

今はどこの組織にも所属しないフリーランスで、好きな時に寝て起きて、好きなことを仕事にして、お金をいただいて、好きな人と自由に楽しく暮らしてる!これはまさに私が望んでいた暮らし。しかも今年は事務所兼自宅を作るから、自分の世界をより充実させられそうでとても楽しみ♡

 

でもでもでもね、ふと思ったの。このわたしの「自由な暮らし」は、誰かの犠牲の上で成り立ってはいないか?と。誰かに迷惑をかけたり、無理させたりして成り立っている「自由」であれば、それは本当の自由ではないと。

 

まず思い当たるのは家族。次に仕事関係の方。私が自由だー!と大の字になっている横で、眉間にシワを寄せている人……いるかも。私は「自分の人生は自分が選択した道でできてる」と当たり前に思ってるけど、そうではない人もいるわけだし。わたしは「誰かの役に立つことをする」のが仕事だと思うから、尚更。自己満足じゃいけないね。

 

しかし。

これを踏まえて思ったこと。

私の自由のために誰かが不自由になってたら、わたしは本当の意味で自由を謳歌していない!と思うと、【不自由であることはフェアである】とも言えるなぁ、と思った!

 

つまり、誰もが【不自由】を抱えて生きてるのが当たり前とされてて、特に仕事は大変なもの、苦しいもの、つまらないものである…って価値観がまだまだ幅を利かせてるのかなって。だから、人は【ある程度不自由であること】が当たり前で、フェア。逆に、自由な人はアンフェア(な存在だと思われる)。

 

「自由に楽しく暮らして稼ぐなんてありえない」と思ってる人が世の中に意外と多いことが不思議だったけど(イケハヤ氏の質問箱見てびっくりした)、なんとなくわかった気がした。「仕事って、生きるって、辛くて大変なのが当たり前なのにお前ばっかり自由で楽しいとか言いやがって!」…妬みとも似てるけど、ちょい違うな、なんていうか…価値観の幅の広さが少し違う感じ。

 

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