可能性の蓋がない

暇な時間をどうするかが最近の課題〜

時代の変化と変わらないものと

わたしが子どもの頃…平成のはじめは、「隣近所にお醤油やお味噌を借りに行く」なんてことがまだ珍しくなかったのだと思う。

 

当時、すでにコンビニは近所にあったけど「あ、いまお味噌汁作ってるのにお味噌がたりないー!」とか「あとほんの少しお醤油がほしい!」なんてことがよくあるうっかり者の母からは「コンビニでお味噌買ってきて」ではなく「おとなりのおばちゃん家に行ってお味噌すこしもらって来て!」なんておつかいを頼まれていたのだ。

 


幼少期に「お隣からお味噌を借りる」という選択肢もあると知って育ったわたしは、「困ったときは誰かに頼っても良い」とも知っている。そして、快く助けてくれる人がいることも知ってる。だからわたしは人の優しさを本当にありがたく思うし、自分も誰かを助けられる人でいたいと思う。

 


「貸す」は「返す」という言葉とセットだけど、おそらく母はお隣のおばさんにお味噌を返していない。たぶん、数日後にお隣を訪ねて、いただきもののリンゴとか、多めに作ったおでんとか、温泉で買ったお饅頭とか…そんなものを渡して、あのときはお味噌をありがとうと言うついでに玄関先でおばさんとちょっとお喋りしてたと思う。


【持ちつ持たれつ】わたしがこの言葉を知ったのはもう少し大きくなってからだと思うけど…まさに、こういうことだよなぁと思う。

 


さて、平成がそろそろ終わる。

 

 

お味噌を買うことしか知らない娘に、「ちょっとお隣からお味噌借りて来て!」と言っても「え?なんで?コンビニで買えばいいじゃん」と答えるだろう。……というか、そもそもお味噌を借りられる人なんて隣近所にいないしね。関係性は悪くなくても、お味噌の貸し借りはハードル高め。もし、お隣に優しいおばさんがいたとしても……買いに行く方がはるかに簡単な時代だと思う。

 

お金を払って買うことの簡単さと正々堂々さ。すっぱり。つながりのない感じ。消費行動。


ごめーんありがと!と言いながら借りることの、緩さ。繋がりまくってるかんじ。貸しができることの重さもありつつ、困ったときはお互い様!と言い合える信頼関係は長年かけて培ってきたものであり、素敵だと思う。消費じゃなくて、蓄積してゆく行動。

 


「繋がり」は面倒くさいけど、厄介だけど、でもありがたい時もたくさんある。持ちつ持たれつ、それは時代が変わっても人が人として生きる限りは変わらないことだと思う。


娘には、「困ったときには誰にでも頼っていいし、困っている人は誰でも助けたらいい」ということを伝えなきゃ。「さすがに〝誰にでも”は難しいよ」と言うなら、「頼れる人をつくるのは、生きる為の知恵」ということを教えなきゃ。そのためには、まず自分が人に与えなければならないということも。与える人になるためにも、感謝や優しさをいつも心に持っててほしい。

 

 

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(春の京都に行ってきた。さむかった!)